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砂の旅人

 

特有の異国的表現が最大に活かされた曲。眼を閉じると、見た事もない世界が展開されていくのが分かる。
全てのバックホーンの曲のなかで、一番深いところまで追求したものではないかとも思われる。

 
 

考察本文

 

 バックホーンの曲の舞台には、やたらと砂漠だとか荒野が出てくる。そこで主人公が一人、という設定が多い。それが魅力なのだけど。
この曲もその典型的なスタイルで、
何処とも知れない異国の砂漠に主人公が一人。瓦礫に座り思いを馳せている場面だ。しかし、ただ座ってただ考えているわけではない。この時点で主人公は高熱に耐え切れず、意識が朦朧としている状況にあるらしい。途方に暮れても無理はない。そんな生死を彷徨う状態のなか、彼は一体何を考えていたのだろうか。 また、一見なんとなく存在するように思える「瓦礫(がれき)」には、実は後になって重大な出来事を思い知らされることになる。

 
深いほど悟りに近付いてくというのが意味ありげな歌詞だ。悟りというのは真理を知ることで、通常は修行など苦しい経験を積んでも会得できるかどうかのものと言われている。それと「欲」とはあまりにかけ離れているように思える。但し、人は「欲」という言葉をすぐ悪い意味で捉え、狭い視野でしか見ていないのかもしれない。ある意味「悟りを開こう」とすることも「欲」のひとつなのだ。(これと通じる意味の歌詞は後にも出てくるので、その時にもっと詳しく解釈したい。) また、ここは「近付いてく」の「てく」の部分の歌い方が印象的だ。無表情な微笑というイメージがあり、全ての感情を超越したような、大げさかもしれないがそんな気さえしてくるようだ。
 ここで物理学者が出てくるが、この「物理学者」という語も栄純のお気に入りなのかもしれない。それはさておき、物理学者が神の存在に気付いたということ。これは一体何を意味しているのか。さきほどの歌詞と合わせて見ると関連があるように思う。物理学者は「研究」という欲の果てに「神」という存在に気付く、すなわち悟ったということになるのか。
 物理学というのはもちろん“物理”というくらいだから、実際に存在すると証明できるもの、紙上に数値化して表せるようなものしか扱わないので、
神など科学で証明できないものとは無縁のはずである。しかし、それが遂に破られてしまった。物理学者は解明に勤しんだあまり、四次元以上の世界を見てしまったのだ。この辺が、さきほどの「欲深いほど〜」に何となく共通する気がする。

 広い砂漠にただ一人、「音」という名のものは何処にもない。シーンという音すら聞こえないほど静まり返っている。その沈黙が砂漠に染み込んでゆく、という表現がたまらない。
昨日まで名もない花が咲き誇ったこれもまた意味ありげだ。昨日までということは、今日は違うのかと誰もが思うだろう。それもまた後で出てくるのでその時に。そして「名もない花」というのは本当に「花」を指しているのか、それとも別のものを「花」に喩えているのか。ここは思案の末、後者だと考えた。花というのは人々のことで、誰に知られるわけでなく、誰に誉められるわけでなく、ただ精一杯生きている人々を「名もない花」と喩えたのだろう。それが咲き誇っていたということは、「精一杯生きている」ということを強調したような意味合いになる。今日(こんにち)、地球上では様々な人が栄誉を称えられ有名になったり、豊かな暮らしを送ったりしている。こんな辺鄙な砂漠に住む人々など存在しないかのような華々しさを見せつける。しかし、本当に素晴らしいのはどちらだろう?認められることが全てではない。名などなくても、精一杯生きることが人間の性であり使命ではないのか。とはいえ、こんなことを考えてしまうのは自分が文明に染まってしまった証拠だ。「いかに生きるか」「何故生きるのか」なども考えず、ただひたすらに生きる。それが本来の人間の姿なのかもしれない。

 昨日とは打って変わって、誰一人として居なくなった砂漠の空気を胸一杯に吸い込む主人公。
希望という欲望をもっとくれこれが、最初と通じる歌詞だ。この曲では、「〜したい」という感情を全て「欲望」と表現している。もちろん国語辞典上では「欲」とはそういう意味なのだが、普段自分達が使う「欲」の意味とは少し違う。日常で使われている「欲」には「卑しい」といった意味も含まれている。第一印象では「希望」を「欲望」と表現するなんて変だと思うのが正直なところだろう。「欲」という言葉が「卑しい」といった意味であるのなら、「希望」は違うのではないか?・・しかし、そうではない。この地の基準で考えると違って見えるのだ。生きるか死ぬかの毎日であるこの地では、「希望」を抱こうとすることすら「欲望」に含まれる。簡単に言えば“贅沢”なのだ。日本では「あれをしたい、これをしたい」と思えば手が届く距離にあるものが殆どで、そんななかで希望を抱いても、それは欲望とは言わない。さきほども示したとおり、この地における「〜したい」という感情は全て「欲望」なのだ。とはいえ、ここで何故主人公が「希望」を欲しいと思ったのか、それは「絶望」を見ているから。人っ子一人いなくなった砂漠を見て彼が馳せる思い、その中に真実がある。どうしてこうなってしまったのかも彼は全て知っているようだ。けどそれを敢えて言わないのが作詞者の才能と言える。


 信じられないくらい哀しいこの夜を、嘘のように星が照らしている。この「嘘のように」という部分がたまらなく好きだ。この美しい星々と現実とのギャップが涙を誘う。(今思ったが、栄純の詞はギャップ効果を見事に使いこなしているように感じる。)砂漠というくらいだから、見える星の数は日本とは比べ物にならないだろう。それはもう隙間などないほどに夜空を埋め尽くしているに違いない。
空が綺麗であればあるほど、惨状は浮き彫りとなってゆく。ここで「星もない空」と表現されるより、何倍も何十倍も悲壮感が漂う。
 そして、国境線に風が吹く。風には国境など何の関係もなく、当たり前のように通り過ぎてゆく。しかし、主人公である「俺」には出来ない。一本の線を越える、ただそれだけのことすら出来ないのだ。そんな俺に何が出来るのだろう?と、自分の無力さを痛感しているようだ。



 
月食の夜 神が降り立つというとあるが、さきほどの神とは何か関係があるのだろうか。同じ曲に同じ語を二つ入れるということは、それなりに繋がりがあるだろう。「降り立つ“という”」という表現からすると、自分で知ったことではなく誰かから聞いたことであるのが分かる。さきほどの物理学者であろうか、それを風の噂か何かで聞いて知っていたのだろう。何故「月食の夜」なのかという詳しいことは知らないが、雰囲気的なものを感じるのが良いと思う。ところでこの曲にはやたらと「神」が出てくるが、曲の内容そのものにはあまり触れていない気がする。頼もしいはずの「神」という言葉すら、何処か無力に思えてくるのが不思議だ。救ってくれる存在だと言われているが、曲中では救いの手など差し伸べてはいない。ただ存在しているだけだ。救えないのか、はたまた救わないのか・・。
 情景に砂漠が続くなか、
初めて「海」という語が出てくる。その海を目指し、キャラバンに紛れ込む。・・「誰が、何のため?」と思えてくる。主語などが徹底的に省かれており、表現的にはそれでいいのだが解釈に悩む。どちらにせよ、「キャラバン」という語で初めて他人の存在を匂わすものが出てきた。誰が何のために海を目指すのか。主人公とも考えられるが違うと思った。この後の展開も含めて見ていくと、海は一切なく主人公はずっと一人で国境付近にいるからだ。おそらく、海を目指す理由は「砂漠を脱出する」という目的から来るものだろう。では、一体誰が?。ほとんど妄想だが、僅かに生き残った人々が次々と砂漠を後にしているということだと思う。どうだろうか・・

 こんななかでも、「支配者達」はちゃっかり生き残っているらしい。人々のことなどお構いなしに悠々と砂の城で眠っている。
俺はかつての国境に立っていたという詞がどこか不思議な感じがする。目的を持って来たのではなく、なんとなくフラフラと来たような印象がある。熱を出していたからだろうか、気が付いたらここにいたという感じだ。そして、ここでもまた過去を思わせるような「かつての」という語が出てきた。これで同類の語は「昨日まで」「かつての」の2つになった。一体、昨日に何があったというのだろうか。それより注目すべきは、「かつての国境」ということは「現在は国境は消滅してしまっている」ということになる。何故国境は無くなってしまったのか。日本人の感覚だと「無常」を思わせる。


悲しくて 愛おしい 人の跡だったここが曲中で一番の見せどころ、かつ泣きどころだと思う。10回聴いて8回は必ず泣ける。誰もいなくなった砂漠を一人孤独に彷徨う主人公が目にしたもの、それは人の跡だった・・。足跡か、はたまた衣服か何かか。明らかに「人がいた」という痕跡が残っていたのだろう。しかし思うに、その人は既にこの世にはいないだろう。主人公が見たものはあくまでも「跡」なので、そこに実際に人がいるわけではない。とはいえ、ずっと一人でいた彼にとってはとてつもない救いになったはずだ。この感情は主人公にシンクロすることで次第とハッキリ分かってくる。ただ、「悲しくて愛おしい」のだ。まず、どうして悲しいのか。それはさきほどからの過去形「昨日まで」「かつての」が大きく関係していると思う。おそらく戦争があったのだろう。いや、戦争といっても一方的なもので、無抵抗の市民がテロか何かで命を奪われてしまったのだろう。咲き誇っていた名もない花が、一瞬にして消し去られた。彼はそのことを知っていた、だから悲しかったのだろう。人々がこの地に生きていた風景を思い浮かべているようにも思える。そして、既に亡き人とは分かっていても愛おしい。それが老若男女誰であっても同じだろう。とにかく「人」の存在を感じることが愛おしいのだ。これらの複雑な感情が絡み合い、どうにもこうにも処理しきれなくなってくる。

 国境線に夕陽が沈むと、空は一気に暗くなる。そんな長い静けさの始まりに儚さを抱いたとき、主人公は
世界中の子供達 抱きしめたくなってるという。昨日まではしゃぎ回っていたであろう子供達も、残酷な戦争の犠牲となっている。そんなことを考えた末に溢れ出した彼の想いがひしひしと伝わってくる。ただ、言うなれば「世界中の」子供達なのだ。この砂漠に生きていた子も、贅沢に暮らしている子も、親の愛を知らない子も含め全て。「抱く」という繋がりで言えば、「儚さ」と抱いた時に「子供達」を抱きたくなっているというのが分かる。そこで、子供というのは「生」の象徴で、生まれたばかりの命という風に捉えてみた。そうすると世界がパッと開けたように分かってくるものがある。
 「異国の空」と繋がって、陽が沈むことは「死」とも捉えられる。赤が死んで真っ黒になった世界で、真っ赤な生まれたての命を抱きたいといった気持ちなのかもしれない。さきほど「希望が欲しい」というニュアンスのことを言っていた
主人公にとっての希望が「子供達」に関係しているとも思える。絶望に浸ったこの世界を照らしてくれ、といった願いも込められているように感じるが、どちらかと言えば寂しさが愛しさに変わった時の感情のような気もする。「寂しい、悲しい」と「愛しい、恋しい」という感情は紙一重なのだ。


垂乳根の海か 輪廻の墓場か 生きて何を待つ?
 ああ、とうとう言ってしまった・・と、そんな気すら起こさせるような究極の詞。これを言ってしまえばどんな言葉も無に等しい。バックホーンの曲という次元を飛び超えて、何もかもの原点を追求してしまっている。こればっかりは、全宇宙の頂点に立つ者にしか知る由がない。人間はもちろんのこと、神だって知り得ないだろうと思う。人間は「修行」と称して現世に降り立ち、使命を全うしてあの世へ帰る。輪廻をする者もいる。ただ、それが「何のため?」と聞かれても答えられない。

 まず「垂乳根の海」というのは、「奇跡」の歌詞で言えば「生命を繋いでゆく母なる海」のこと。本来「垂乳根の-」というのは母だとか親にかかる枕言葉なのだが、「海」にかかっているので「海」=「母」ということになる。そして「輪廻の墓場」というのは、生まれ変わりを繰り返した末に行きつくところのことだろう。いくらリサイクルしたところで、最後には終わりを迎えるのだ。
 「垂乳根の海」=「生」だとすると、「輪廻の墓場」=「死」となる。この
生と死を繰り返して、一体何になるといるのか?辿り着く場所はあるのか?といった疑問がうかがえる。生きて何を待つのか。生きていてもいずれ死ぬ。死んでもいずれ輪廻する。そして新たに生を受けてもいずれ死ぬ。死んでもいずれ・・と、一向に行きつく先は見えて来ない。

こんなことを考えている間も自分の人生の残り時間は刻一刻と減っていき、世界の至るところで人々が死に、また生まれてゆく。

 

最後に

 

バックホーンのなかでも1、2を争うほど心に沁みる曲。何度聴いても慣れることはない。
ゆったりしている部分と盛り上がる部分の差がこれまた魅力である。

・・・コンピレーションアルバム「宴」にしか収録されていない曲なので、聴く機会はあまり無いと思います。
現在自分が知っている入手経路は「ライブ物販」「公式サイト通販」の2つだけです。ただ、これもいつ無くなるか分かりません。
後回しにしていると二度と入手できなくなるかもしれないので、思い立ったときに是非買ってください!!。
もちろんバックホーン以外にも怒髪天やキセルなど豪華な顔ぶれです。とにかく買って損はしませんよ。

 

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